成人の日も過ぎ、今年もすっかり慌しい日常に戻った感がある。年末年始の帰省からまだ2週間と経っていないとは、俄かに信じがたいほどだ。
さて、今回はこの元旦に、日本の北端と南端の地方紙が、奇しくも同じテーマで年頭の社説を展開したことを皆さんに紹介したいと思う。
そのテーマとは
共生
である。
まず、その一方の社説=北海道新聞社説から紹介する。
【引用開始】
選択の時 経済危機の中で 人を粗末にしない社会に(1月1日)
米国で発生した未曾有の金融危機を引き金に、世界があっという間に同時不況に陥る中、年が明けた。
年の瀬に職を失い、途方に暮れる人たちがあちこちにいる。わたしたちの北海道でもそうだ。
なぜこんなことが起きるのか。
もうけがすべての金融資本主義と、それを支え、むやみに規制を緩めてきた新自由主義政策の行き詰まりと言うほかあるまい。
欲望を野放しにすることで、社会を不安定にし、地球環境も劣化させたこれまでの経済のありようを見直すとすれば、構想を描くのは、民主主義に立つ政治の役割だろう。
国境を越えた経済に、政治が追いつくために、各国が地球規模で手を携え、知恵を絞らねばならない。
*たが外れた金融経済
作家の司馬遼太郎さんは、著書「風塵(ふうじん)抄」で書いている。
「資本主義はモノを作って、拡大再生産のために原価より多少利をつけて売るのが、大原則である」。それを守らなければ「亡(ほろ)ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらには、人の心を荒廃させてしまう」。
生前、司馬さんは、日本の土地バブルを嘆き、米国の証券投機に不安を隠さなかった。これは経済よりも、倫理上の課題であると。
資本主義が、いま最も現実的な経済システムであることは間違いないだろう。社会主義計画経済を採った旧ソ連の崩壊はそれを印象づけたが、皮肉にも、資本主義の総本山・米国への一極集中の構造が強まってから、たがが外れだした。
もの作りの力が落ちていた米国で、金融部門が異常に膨れて、投機マネーが乱舞する経済が出現する。それが世界中を巻き込んだのだったが、結局、米国で制御不能に陥り、今日の世界的な危機を招いた。
*格差が悪循環を生む
この流れの根っこにあるのが、市場を万能とし、個人の責任を重視する新自由主義にほかならない。
米国のレーガン、英国のサッチャー時代の政策路線を、日本は小泉改革で後追いした。金融や労働の規制を緩めるなかで生まれた「鬼っ子」が、金融バブルの崩壊であり、格差社会の出現と言えよう。
近代思想は「人権」を中心に据え、その文脈で国による社会政策としての福祉が生まれた。
逆行するかのように、新自由主義は、極端に言えば、人もカネも情報も、市場で動かせる「物」として扱う。結果、生まれたのは、途方もない富裕層と、新たな貧困層だ。
日本も例外ではない。あなたは社会にとって無用と言わんばかりに、いとも簡単に切り捨てるリストラが横行する。家庭の収入格差が子供の教育格差、はては職業選択にまで連鎖する悪循環を生んでいる。
わたしたちの社会は「格差」から、もはや「分断」の様相を見せているといっても決して大げさでない。
この傾向は各国の国内で、程度の差はあれ共通する。
そこへもってきて、世界不況だ。輸出産業への打撃で、途上国だけでなく、日本においてさえ、職と住まいを奪われ、命までも脅かされている人たちが現れている。
自国の経済を守るために、保護主義が前面に出てこないかも心配される。富める国と貧しい国の格差に拍車がかかり、貧困はさらなる国際紛争やテロを招きかねない。
いま何より必要なのは、国際協調だ。それには主要国を中心に、政治的なリーダーシップと、スピーディーな政策実行が不可欠だ。
ところが日本では、麻生太郎政権が迷走し、国際社会の中でも政策決定が遅れがちだ。今年行われる衆院総選挙こそ、日本はどうするのかを有権者が政党に鋭く問うて針路を選び取る好機になろう。
*公正と共生の重視を
各国とも財政が窮屈だ。しかし、国民の一部でなく、多くが希望を持てる政策は、十分可能である。所得の偏りを是正する施策の数々だ。
もはや、上位層が富めば中下層にもおこぼれがあるはずだ、というトリクル・ダウン論は破たんした。
まもなく米大統領に就くオバマ氏は、社会の底上げが必要だと、中下層を重視する政策を採ろうとしていることは注目してよい。
市場に任せきりの「小さな政府」は弊害が多い。さりとて「大きな政府」も、官の力が強まるようなら好ましくあるまい。効率と競争の前提として、公正と共生の価値を注ぎ込むことが大切だ。
世界が米国一極から、多極化へ向かう中で、日本がリードすべき役割は少なくないと考える。
本来、自然と共に人々が支え合い、教育水準の高い社会を形作っていた日本には、モノづくりで培われた誇るべき技術力もある。
知恵を総動員して社会を立て直し、「人も資源も粗末にしない」価値観に基づく、新しい経済の枠組みを目指すべきだ。それが、温暖化に病む地球の未来を救うことにもつながる。日本が率先して行い、世界に連帯を呼びかけたい。
実は当初、今エントリーは、先の年末年始の帰省のおり実家で目にした上の社説に深く共感するものがあり、それについて紹介しようと書き始めたのだが、ふと、
「それでは他の地方紙の元旦の社説はどうだったのか」
と考え、ネットで調べたところ、何と北海道と正反対、南の沖縄の地方紙・琉球新報も同日、示し合わせた訳でもなかろうに、同じく『共生』をテーマに社説を出していたのである。
以下がその琉球新報社説だ。
【引用開始】
新年を迎えて 「共生」に希望を託し/張り替えたい社会の安全網(2009年1月1日)
新しい年を迎えた。今年はどんな年になるのか。像を思い描いてみる。周囲を見渡してみる。
表向き大きな変化はない。年初特有の華やぎに満ちてはいる。だが正月を迎える雰囲気や様相が心持ち違っているふうにも感じられる。気の持ち方のせいなのか。
おとそ気分に浸ろうとするムードに水を差し、団欒(だんらん)の邪魔をするように割って入ってくるものの正体をわたしたちはすでに気付いている。
伝来の生きる知恵
世界中を覆い尽くさんばかりに重苦しさが分厚く漂っている。未経験のこの重苦しさは、経済危機や景気後退を招いた米国発の金融危機が源だ。世界全体に立ちこめ、前をふさぐ濃い霧。深い混迷。加速する世界同時不況、雇用不安はいつになったら収まるのか。視界はようとして開けない。それが不安を一層あおる。
残念なことにわたしたちは、背負いきれぬほどの過重な荷物を抱え込んだまま越年した。重荷が国や社会や企業の本体、全身にくまなく食い込み、のしかかる。個人も重圧からは逃れられない。
それでもである。「100年に1度の危機」は、一度きりで終わらせねばならない。未曾有の危機に今回限りで終止符を打つ。でなければたまったものではない。
鍵を握るのは「共生」の理念である。世を改める力、社会の秩序を修復し、整え直し、推進していくエンジンとして「共生」に期待したい。救済を託したいのだ。
「共生」は特定の誰かが特段に音頭を取るまでもなく、ごく自然に継承してきた伝来の生きる知恵ではなかったか。取り立てて旗を振らなくても不文律はおのずと行き渡る。講釈も不要だ。当たり前のように受け入れられてきたのは、沖縄社会の「ユイマール」にも当てはまる。
振り返れば、世界が一気に暗転した昨年後半からの光景はまさに異様だった。米国に端を発した金融危機が猛スピードで世界を駆けめぐった。大津波はインドなどの新興経済国にも襲いかかった。株式市場をのみこむ。グローバル経済のすさまじさを見せつけた。
日本経済も当初の楽観論とは裏腹に逆風にさらされ、トヨタ、ソニーといった日本の代表的な大企業が軒並み雇用削減に転じた。
厚生労働省の調査によると、今年3月にかけて既に失業したか失業が決まっている派遣社員や契約社員ら非正規労働者は8万5000人に達する見通しだ。ほんの1カ月で約3倍に膨れ上がった。期間工など県外に働く場を求めざるを得ない県内の雇用情勢は悪化し、ダメージを被っている。
深刻なのは、職場と住む所を同時に失ってしまうことだ。雇用の調整弁にされ、景気のいい時は使うだけ使っておいて、都合が悪くなると切り捨てられる。非正規労働者らがそう受け取るのも無理はない。
基地問題解決の好機
業績の悪化を理由に「派遣切り」「雇い止め」を通告する一方で、トヨタなど大手製造業はこの数年で空前の規模の内部留保を積み上げてきた。やむにやまれぬ雇用削減もあり得るかもしれない。だが今回はどうか。名だたる大企業には「共生」の理念は通用しないのだろうか。残念である。
「共生」は社会の安全網の別名であろう。利益や効率を追い求めているうちに、わたしたちの安全網はほどけてしまったようだ。目がひどく粗くなっている。手を尽くし早急に張り替えねばなるまい。
本来備えているはずの「共生」の心を、社会の隅々によみがえらせ、確たる規範をつくりあげたい。政治や経済活動に生かし、生活の中でも取り戻していく。今年一年、強力に取り組むべき喫緊の課題である。
今月末に米国では「変革(チェンジ)」を呼び掛けるオバマ氏が大統領に就任する。ブッシュ政権の単独行動主義から国際協調へシフトすることが期待され、世界の耳目を集める。「共生」への期待である。容易ではないが、普天間飛行場返還をはじめとする米軍基地の整理縮小問題を解決、前進させる好機ととらえたい。
世界同時不況の底はまだ見えない。しかし、その前に住む社会の底が抜けてしまっては元も子もなくなる。何より暮らしや地域の安心と安全を最優先する世でありたい。いまなら間に合う。
『共生』というと、去年9月にいきなり政権を放り出し、世間を唖然とさせた福田康夫前総理が、所信表明演説でうたったのが「自立と共生」だった。
しかし、福田氏の言う薄っぺらい「共生」と、上記二地方紙の言う「共生」とは、重みが違うのである。
北海道、そして沖縄の「共生」-それは北海道(アイヌモシリ)の先住民族アイヌの人々、そして沖縄のウチナーンチュの人々が先祖代々受け継いできた『文化』なのだ。
そしてその『共生』社会を、『生活水準向上』『同化』の文句で、北海道・沖縄“開発”庁のもと、札束で顔を引っ叩き、かけがえのない自然を破壊し、コミュニティーに蓄えられた富を東京に収奪し、あまつさえ沖縄では在日米軍駐留の苦痛までも押しつけ、無残にも踏みにじってきたのが歴代政府ではないのか!?
北海道そして沖縄ではしばしば『独立論』が取り沙汰されることがあるが、これは単に北海道・沖縄が一時期中央政府と異なる政府を持っていたからだけでなく、そういった政府の行為に対する怒りの発露だと紅星は捉えている。
金融危機・環境問題の深刻化などを突き詰めていくと、アメリカ式鉄火場資本主義と3M(大量生産・大量消費・大量廃棄)システムの弊害が臨界点に達している事はいよいよ明白である。
どだい、地球人類全体を『グローバル化』と称してアメリカの価値観に染め上げてしまおうというのが間違いなのだ。
『単一性』 『均質性』が進行した、生物種や、組織や、国家が衰退・滅亡に向かうのは、自然科学でも社会科学でも自明の理。
生物種の持続繁栄には『生物学的・遺伝的多様性』、社会の持続発展には『価値観の多様性』 『文化の多様性』が必要不可欠であり、その土台には『共生』がどっしりと座っている事が当然なのである。
さらに極言するならば、今の閉塞感を打破し、日本を再生させるカギも、『東京化』 『国際化(実はアメリカ化)』の幻想を捨てて、『方言』や『食文化』に象徴される、その地域の文化やコミュニティーに回帰しつつ、他の地域(さらに広げるなら他の国)の文化・価値観も尊重する、『多様性』と『共生』の理念に立脚した、明治以前の日本(多様な文化の集合体としての日本)に立ち返ることにあるのでは、と紅星は常々思うのである。
最後は些か支離滅裂・白昼夢のようになってしまったが、上記二紙の社説を読みつつ、『共生』の地域づくり・国づくりに、自分はどう関わっていくかを、改めて考えさせられた事だった。


この記事に対するコメント
おいもそう思っちょる!
こんにちは。僕が、未来の鍵を握っていると確信している共産党の党員の中に、僕と同じ考えを抱く人物のいることを発見し、とてもうれしい。旧稿ですが、「日本共産党を日本共生党に」と「革新リストラクチャリング」の二編をTBします。紅星クン、さらに不良党員たれ!そして、共産党を政権奪取できる党に変え給え。
理想社会を実現する為には
こんにちは。如何お過ごしでしょうか?
今日は、共産党が勢力を拡大する為の献策を少々。
共産党が共産党による理想社会の実現をする為には合法的に議会選挙に打ち勝つ必要があります。私は個人的には、共産党に一度政権担当をさせて白黒を付けさせたい。共産党の政策が正しくて、日本国の統治が上手くいけば、私は自分が間違っていましたと懺悔するし、共産党が完全に失敗すれば、我々右派の主張の正しさの実証になるので、どちらにしても歓迎すべき事態だからです(笑)いかにも紅水さんから考えれば、いごっそう的な乱暴な意見でしょうが、私の母方の祖母が、北海道の出なんで、貴方と多少波長が合うような傾向を感じますので、建設的な話を続けたいと思います。
では、政権取りの献策第一として、ニート層の政治能力の開発です。
今、共産党がニート層の取り込みに取り組まれていますが、共産党が表に出るよりかは、潜在層も含めて数百万のニート層は、宝の山です。失礼な言い方だが、共産党が全面に出て、ニート・格差問題に色をつけるよりかは、背後からニート達が自らによる自らの為の政治組織ニート党を結成する為の支援に、撤するべきではないでしょうか?彼らの侮りがたい政治的潜在力を考慮すると、次の選挙でニート・格差党は、かなりの躍進が見込めるからです。若者の政治的関心も高まって投票率も確実に上昇するでしょう。その時に共産党は、かつての革新懇のような形態で、ニート・格差党と議会で協力すればよいのです。
第二点目は、保守層の取り込みです。共産党の欠点は皇室や国防に対して曖昧なところがあるから、保守層はその点を警戒をしています。我々は、その点を強調するから逆に保守層に警戒されるのですが(苦笑)
例えば、皇室の問題ですがもっとおおらかに対処するべきです。かつて明治天皇から先帝まで、昭和二十年までですが、大日本帝国憲法には、確かに国家の統治者として定められていたが実質は現代の陛下のように象徴的存在に変わりはなかった。しかし、右翼も左翼も明治時代に作られた強力な指導者のイメージを元に不毛な論議を続けているから、いつまでたっても「開かれた皇室」に到達しない。夏目漱石が「心」に書いたように、天皇は時代精神の象徴どあると書いたように、天皇陛下はお一方づつ人間として個別の人格を持たれている訳だから、過去の問題を持ち出して、とやかくいうのは適当ではない。歴史は全ての人物の集団劇だから、今生きている人々全てが背負っているわけであって、天皇陛下お一人の責任でないのだから、共産党にはもう少し大らかに皇室に対して接していただきたい。同時に一部の右翼に対しても、皇室を飯のタネにして貶めるなと言いたい。以上が、私なりの共産党の兄弟達に対する愛を込めた献策であり、メッセージであります。
次の選挙はもうすぐちかいですが、共産党に期待しています。もっと大らかにに諸事全般に故山原先生のように臨んで下さい。
「今こそ確かな野党が必要です」より「今こそ確かな与党が必要です。共産党のみが日本を救済する!」これくらい元気に行きましょう。
では、本日はこれにて失礼致します。