安土城幻夢

 今回の記事は、10/5のエントリー記事を書いている途中で書きたくなったが、冗長になりそうな感があったので書かなかった事について。

 さて、安土町といえば何といってもこれ、

安土城古図(Wikiより) 『安土城をつくる』

現在 『ガテン火天の城』 絶賛公開中の 安土城
 

 『滋賀報知新聞』によると、『火天の城』効果で、安土城関連施設を訪れた観光客は、9月で前年比の3-4倍にも達したという。


【以下、 『滋賀報知新聞』より引用】


映画「火天の城」効果で安土詣の観光客激増

■平成21年10月5日(月) 
=関連施設軒並み3倍・4倍=
◇東近江・安土町
 九月十二日に全国一斉公開された映画「火天の城」が滋賀県に与えた波及効果について、県観光振興課と滋賀ロケーションオフィスは、安土町観光協会による調査結果などを基に九月二十三日現在での状況をまとめ、公表した。
 それによると県内の映画興行実績は、県が全国に占める人口割合が一・一パーセントであるにもかかわらず、映画鑑賞者数は全国の四・七二パーセントを占め、最終的には五%を超えるものと見込んでいる。
 これは、全国二百七十館を超える大規模公開作品としては、非常に稀な「近畿を中心としたヒット」となっており、「特に滋賀県における興行実績は驚異的な数字」といえる。
 好調の要因として、知事の映画トップセールス、県経済団体連合会の興行面でのバックアップ、県観光振興課や滋賀ロケーションオフィスにおける各種広報宣伝など、全県あげての支援が実を結んだとみている。
 作品公開による県内観光ヘの波及は、特に安土城址のある安土町で顕著となった。
 安土町内にある安土城関連の安土城址、安土城天主信長の館、安土城考古博物館、安土町城郭資料館では、映画公開前からすでに昨年を上回る来場者増がみられたが、テレビでの関連番組の放映、映画の公開開始などで、一気に「安土ブーム」に火が着き、特に九月の連休「シルバーウィーク」は、大勢の観光客が各施設にどっと詰め掛けた。
 個々の施設でみると、安土城址が七月は三千七百八十人(前年同月二千五百人)、八月は八千五百人(同五千五百人)、九月は一万五千百七十八人(同四千人)と、九月の前年度比三百七十九パーセントを記録したのをはじめ、安土城天主信長の館が一万四千三百二十九人で同比二百八十七パーセント、安土城考古博物館が九千八百二十一人で同比二百八十九パーセント、安土町城郭資料館にいたっては三千七十七人で同比四百四十パーセントと、見学者であふれた。
 安土町観光協会によると、シルバーウィークの五日間(九月十九―二十三日)だけで、安土城址九千五人、安土城天主信長の館八千九十七人、安土城考古博物館五千七百三十三人、安土町城郭資料館千六百五十一人を記録した。
 県観光振興課と滋賀ロケーションオフィスでは、「観光客激増は高速道路の割引効果の影響も考えられるが、映画『火天の城』誘致が滋賀県観光へ与えた影響および経済波及効果が大きい」と、分析している。



 安土城天守は八角堂に象徴されるような前衛的なフォルムを持ち、まさに『天主』と呼ぶに相応しい、当時の世界でも屈指の建築物であった。

 もし現存したならば、間違いなく姫路城より先にユネスコの『世界遺産』に登録されたであろうこの壮麗なる巨城は、完成からわずか3年でこの世から消滅してしまう。

 安土城建築で棟梁を務めた岡部又右衛門父子が本能寺の変で信長と運命をともにした為か、以後日本の城郭で八角堂の天守を持つ城は出現しなかった。

 安土城炎上については、信長の子・三介信雄による放火とも、掠奪目的の土民による放火ともされている(歴史マニアの中では信雄主犯説が大勢を占める一方、ウィキペディアでは土民の犯行を有力説としている)が、本能寺の変後安土城を守備していた明智光秀騎下の武将・明智秀満が焼失を惜しみ無抵抗で明け渡したというのに、誠に残念な事である。

 しかし、はたと考えてみるに、本能寺の変後の混乱期をもし無事に切り抜けたとしたなら、果たして21世紀に生きる我々にその雄姿を見せていたのであろうか???

 ここからは歴史のifである。

 ①本能寺の変の混乱期を無事に乗り越えた安土城は、やはり『天下様の城』として、しばらくは歴史の中心舞台となるであろう。まず史実の『清洲会議』は『安土会議』となる。その後の織田旧臣同士の争いの余波で炎上する可能性もあるかも知れないが、史実通りに歴史が進めば、安土周辺では大規模な戦闘は行われていないから、羽柴(豊臣)秀吉の天下統一までは、まず無事に残るであろう。

 ②問題は秀吉の大坂築城、そして天下統一後である。秀吉が大坂城を築城せず、安土城を本拠とする可能性も全くないではないが、恐らく史実通りに大坂城を築き、大坂を本拠地とするであろう。何故なら、そうする事なしでは秀吉は『信長の幻』から逃れられないからである。巨閣・大坂城の築城自体が秀吉にとっては『信長超え』であったことは容易に想像できる。

 そんな秀吉にとって、信長の権威の象徴である安土城が健在で、威容をあまねく天下に誇示し続ける状況は、やはり心穏やかではあるまい。史実では、秀吉の養子であり秀頼誕生までは実質秀吉の後継者だった秀次が、安土に近い八幡山に築城し城下町を整備して、それに伴い旧安土城下は近江の一寒村へと変容していくが、何とかして秀吉は安土城を消し去ろうとするのではあるまいか?史実の八幡山城の代わりに、秀次が安土城主となることはどう考えてもあり得ない(そんなことをしたら、ますます秀吉のフラストレーションは溜まるだろう)。

 もっとも、『消し去る』といっても正面切って破却し、聚楽第の材料にでもしようものなら、蒲生氏郷や前田利家、池田輝政などといった旧織田家臣系の大名に猛反発を喰らうだろうし、秀吉の評判も落ちるだろうから、失火を装った放火でもして炎上・焼失させてしまうのではなかろうかと思うのだが。

 ③もし秀吉が安土城を見ても『信長の幻』に囚われず、そのままにしておいたとして、ならば次期政権の主・徳川家康の治世になったら、安土城は健在であり続けられるであろうか?

 正直、秀吉以上に家康の方が安土城を葬り去ろうという情念、換言すれば、『信長へのトラウマ』は強いのではないかと思う。

 確かに清洲同盟以後、家康は信長の良き同盟相手として、その覇業の伴走者を務めたようにも思える。しかし、清洲同盟は成立直後こそ対等同盟であったが、信長の版図の飛躍的拡大に伴い、次第に従属同盟の色彩を強めた感がある。家康の嫡男・信康の自害要求など、その良い例と言えよう。
 本能寺の変直前などは、安土・堺での歓待こそ丁重なものがあったが、軍事的にはもはや対北条の東海方面司令官・・・まるで『日米同盟』における日本のような扱いをされていたのではあるまいか?

 そのような理不尽な信長の数々の要求に対し、愛する嫡男と、正妻(こちらは処断に逡巡した様子は見えないが)を処断してまで追従した家康。本能寺の変は危機であったが、伊賀越えで無事三河に辿り着いた家康は、正直嬉々としていたのではなかろうか?
 彼が三河帰着後まず手をつけたのは、織田領であった甲斐・信濃への侵攻であった。

 そんな家康が、もし信長の権威の象徴とも言える安土城が健在であったとしたら、黙って放っておくとはとても思えない。恐らく安土を通るたび、信長に味あわされた屈従の日々や、信康処断の苦い思い出が頭をよぎり、とても正気では居れないであろうから。

 現に史実では、関ヶ原合戦後、事実上の『天下様』として君臨するようになった家康は、1601年に岐阜城を廃城にし、娘婿の奥平信昌に加納城を築城させている(その際、岐阜城の天守、櫓はそっくり加納城に移築されたと伝わる)。
 また、1609年には家康によって清洲城の廃城と、天下普請による名古屋城築城が行われ、いわゆる『清洲越し』によって、信長の覇業の出発点である清洲城と清洲の町は、徹底的に消し去られてしまう。

 ここまで来たら、家康による徹底的な『信長抹殺』の意志すら感じてしまうのは紅星の邪推なのであろうか?

 安土城が秀吉には消し去られなかったとしても、家康の“魔手”から逃れられた可能性は、以上のことから限りなくゼロに近かったのでは・・・と思う。恐らくは、城の廃材と安土の町は、井伊の彦根城の材料にされたか、それとも、史実では紀伊に立藩した徳川頼宣が近江八幡あたりに知行され、八幡新城とその城下町にそっくり移されでもしたのでは・・・と妄想を働かせて見たりする。

 何にせよ、史実では安土や近江八幡を含む蒲生・日野の二郡は仁正寺藩(市橋家)2万石の領地であったが、そのような小藩で安土城は健在という事はありえない。

 ④それでももし、家康が安土城および安土城下抹殺に乗り出さず、江戸幕府の治世265年を無事に乗り切ったとしても、今度は明治新政府が安土城破壊に乗り出してくる。

 明治維新直後全国に186あった城も、旧物破壊・厭旧競新の風潮を受け各地で取り壊され、昭和までに残ったのは、何と22城(天守閣は18城)という有様だった!!
 現在では日本の誇り・国宝にしてユネスコの世界遺産の姫路城すら、23円50銭(現代の貨幣価値に換算して、何と23万5000円!!)で落札されて取り壊されかけただけでなく、現存12天守のいずれもがこの危機を潜り抜けてきたのだ。
 安土城が明治まで残ったとしても、恐らくこの明治政府による破却の嵐から逃れる事は至難の業であろう。

 ⑤それでは、以上の『本能寺の変直後の混乱期』、『豊臣政権下での破却』、『徳川政権下での破却』そして『明治政府による破却の大嵐』という4つの危機から逃れられたなら、今日我々は安土城を目にする事ができたのであろうか?
 否、全国の城郭にはもう一つの試練が待ち構えていたのである。先ほど『昭和まで残った天守は18城』と記したが、現存天守は12城。残り6城は何故焼失したか!?

 賢明な諸兄はもうお分かりであろう。全国の城を襲った最後の惨禍・・・それは昭和20年の『米軍による空襲』である。
 全国の主要都市を灰燼に帰さしめたこの空襲で、名古屋城(5月14日)、岡山城(6月29日)、和歌山城(7月9日)、大垣城(7月29日)、福山城(8月8日)が大炎上の末焼け落ち、広島城は8月6日午前8時15分、原爆投下により瞬時に倒壊・炎上して焼失した。

 もし安土城が4つの危機をすり抜けたとしても、安土城が残るということは安土の城下町も残り、それなりに都市として発展を遂げ、軍事施設や軍需工場なども置かれたかも知れない。そうなれば、米軍による空襲で安土城および『安土市』は灰燼と帰していたであろう。


 以上、『安土城天守が現存するにあたり、乗り越えなければならない5つの危機』について冗長な文章でお目汚ししてきたが、これは如何に城の天守閣が現存するのが困難であったかも示す、歴史的事実の羅列でもある。

 江戸期から現存する天守は何度も記したように12天守(北から弘前・丸岡・松本・犬山・彦根・姫路・備中松山・松江・丸亀・伊予松山・宇和島・高知)あるが、この12天守を21世紀に生きる我々が目にすることが出来ているのは、ある意味『奇跡』なのである。

 現存12天守を観光される時には、そのような歴史の奇跡についても想いを巡らせ、12天守それぞれの美を堪能して頂きたい・・・

 と、最後は説教口調になってしまった。

 さて、実は安土城が現存する、もう一つの可能性が存在する。

 それは何ぞやというと、他でもない、『最初のボタンの掛け違い』

 すなわち
『明智光秀の謀反が失敗、信長・信忠が逃げ延び、信長による天下統一が達成される』

という、もう一つの『歴史』が『史実』となった時である。

 もっとも、それが『史実』となった世界では、『日本史』、否、『世界史』すら大幅に異なるものとなっていたのは間違いなかろう(少なくとも日本の首都は『東京』でなく、先日世界に顰蹙を買った『東京オリンピック』騒動など起こる筈もない)。『日本国憲法第9条』なぞ、恐らく存在しないだろう。『天皇制』すら存在が怪しくなってくる。

 そう考えると、安土城はやはり『幻の名城』であり、『信長の野望』などの歴史シミュレーションゲームに太平楽に興じる事が出来ている、この『史実』であって良かったのではなかろうか・・・???とも思えてくるが、皆様はどうお考えか?




 以上、本日はこれまで。紅星の妄想にお付き合いいただき、誠に有難き次第。

したっけ

スポンサーサイト

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿



管理者にだけ表示を許可する

この記事に対するトラックバック

トラックバックURL
http://tosanishikigyorin.blog47.fc2.com/tb.php/267-04630b41
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)