『亀さん』の足跡たどるツアーと、本土返還のたたかい

 米軍軍政下の沖縄で、逮捕・投獄などの弾圧・迫害を受けながらも反基地闘争の先頭に立ち、今なお沖縄県民から『亀さん』の愛称で親しまれる瀬長亀次郎さん。

  瀬長亀次郎夫妻

 その人気は未だ衰えず、1998年には映画『カメジロー 沖縄の青春』が制作され、右派の論客・小林よしのり氏も著書『沖縄論』で「亀次郎の戦い」を書き、評価せざるを得ないほどだった。

 その『亀さん』こと瀬長亀次郎さんとその妻フミさんの不屈の歩みを紹介するツアーが計画されている。


 その企画を知ったのは今朝の高知新聞。最初は全文打ち込みで引用しようと考えたら、検索したところ『沖縄タイムス』さんが全く同じ記事を掲載していたので、それをコピーさせて貰う事にした。

以下は『沖縄タイムス』からの引用。

【引用開始】

修学旅行で亀さんツアー 瀬長夫妻ゆかりの地回る 次女が来月計画
今こそ、両親の不屈の歩み伝えたい   社会 2009年12月29日 09時34分


 米軍統治下の沖縄で投獄や被選挙権はく奪などの弾圧に抵抗し、反基地闘争の先頭に立った政治家瀬長亀次郎氏(1907~2001年)の足跡をたどるツアーを、次女の内村千尋さん(64)=那覇市=が1月に計画している。

 亀次郎氏を支え続けた妻の元那覇市議フミさんは100歳で健在。内村さんは沖縄が基地移設問題で揺れ動く今こそ、両親の不屈の歩みを広く伝えたいという。

 那覇市の老人保健施設に暮らすフミさんは、投薬も不要な健康体で、沖縄芝居や島唄のビデオ鑑賞を楽しむ日々だ。

 9月には、あでやかな紅型(びんがた)衣装で100歳記念パーティーに出席。夫らが沖縄の本土復帰実現や人権擁護を訴えて1947年に結成した大衆政党「沖縄人民党」の古い仲間や、親族から祝福を受けた。

 夫の政治活動を支えようとフミさんは52年、那覇市の人民党本部に隣接する自宅で雑貨店を開店。貧しい客には、しょうゆなどを必要な分だけ量り売りもした。よく店番を任された内村さんは「雨漏りのするお店でもうからなかったが、母の支えがなければ父の活躍はなかった」と振り返る。

 詩や短歌を好んだフミさんは「歌の山 恩納岳かなし 米軍の 砲弾の音 小鳥も住めず」と、米軍の実弾演習にさらされた沖縄の自然をうたい、亀次郎氏が衆院議員を最後に90年政界を引退してからは「デモ隊を テレビに見る目 輝きて 胸中燃えしか 病床の夫」と詠んだことも。

 1月のツアーは東京からの修学旅行生が対象で、内村さんは両親と暮らした家の取り壊された跡地や、米軍統治下の地元議会・立法院のモニュメントなど関連地を案内する予定。一般向けの開催を期待する声もあるという。

 内村さんは「こうしたツアー学習はこれまで戦跡中心だったが、亀次郎とフミゆかりの地を回りながら、復帰前の県民がいかに島ぐるみで闘ってきたかを知り、今も続く基地被害について考えてもらう機会になればうれしい」と話している。

(※高知新聞より註:瀬長亀次郎・フミ夫妻: 治安維持法違反で服役、出獄したばかりの瀬長亀次郎氏と、フミさんは1936年に結婚。亀次郎氏は52年、沖縄の立法院議員に初当選するが、米軍の弾圧で54年逮捕、投獄され約1年半服役した。56年、那覇市長に当選。「赤い市長」として米軍に追放され、被選挙権もはく奪されたが、県民からカリスマ的支持を受けた。フミさんは立候補できない夫に代わり政界へ、との待望論に押され60年、立法院議員選に立候補するが落選。65年の那覇市議選では最高得票で当選し、4期16年務めた。亀次郎氏は70年から衆院議員に7回連続当選、結成に参画した沖縄人民党が共産党に合流後は同党副委員長も務めた。)

【引用終わり】


 さて、ちょうど歩調をあわせるかのように、今日の『しんぶん赤旗』は1、3面で沖縄返還闘争について記事を組んでいる。

 こちらは『しんぶん赤旗』のサイト見ても全然載っていないので、少々大変だが、手打ちで引用させてもらおう。

【引用開始】

沖縄返還 乗り越えた条約の壁
たたかい 島ぐるみ   『しんぶん赤旗』 2010年1月9日

 1972年の沖縄返還は、それを不可能にする多国間条約の壁を乗り越えて実現しました。原動力は、沖縄県民と、それに連帯した本土のたたかいでした。今日の焦眉の課題である沖縄・普天間基地の無条件撤去も、日米の2国間合意を超えて実現可能であることを、日本国民の歴史的体験で示しています。

国連ビル廊下

 ニューヨークの国連本部ビル。薄暗い廊下に面した壁に、「信託統治理事会」の文字が浮かび上がります。94年のパラオ独立以後に活動を停止し、ひっそりしています。この信託統治の制度が、沖縄を本土から切り離す仕組みに使われました。

 戦後の沖縄の地位を決めたのは、日本の侵略戦争の戦後処理条約であるサンフランシスコ条約(対日講和条約)です。同条約は、戦後日本の領域を定めた第2章の第3条で、次の規定を設けています。

▽琉球諸島(沖縄)を含む北緯29度以南の地域は、「合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におく」との米国の国連への提案に日本は同意する。

▽「このような提案が行われ且つ可決されるまで」米国は、同地域への「行政・立法及び司法上の権力・・・を行使する権利を有する」

 つまり、米国が全権を握った占領を続けるか、米国を「唯一の施政権者」とする信託統治下に置くか-二つの道のどちらを選ぶかも米国の提案によるというのです。日本復帰の道を将来にわたって閉ざした条約でした。

 日本本土攻撃のために占領した沖縄を“米軍が血であがなった獲得物”とみなし、戦後のアジア支配の拠点とする米戦略を貫徹するための仕組みでした。

米大使が警鐘 

 沖縄県民は、こうした米国の軍事支配を受け入れず、50年代から60年代にかけて、米軍の土地強奪に反対する「島ぐるみ闘争」を進めながら、「祖国復帰運動」を展開。本土とのたたかいと結んで米国の支配を揺るがしていきました。

 日米軍事同盟堅持の観点から、これに深刻な危機感を抱いたのが、ライシャワー駐日米大使(61~66年在任)でした。米政府の解禁文書集には、ライシャワー大使の本国あての“警鐘”の通信があふれています。

 65年7月14日のラスク国務長官あての長文の覚書では、「ベトナム情勢に対する1月以降の日本での強烈な国民の反応は、それまでの(日米関係の)楽観的評価を無効にしてしまった」と表明。「(安保条約の廃棄通告ができる)70年までに日米関係が全面的に安定化するとの見通しはなくなっており、琉球問題を管理可能な状態に保つことも想定できない」と告白します。

 大使は、その対策の一つとして、沖縄の施政権返還も想定した提起をしました。

 「在沖基地のどんな継続的使用が必要か、そのためにどんな権利が必要か、さらに、沖縄の施政権が日本に返還される時に、どのような条約の特別の条項が必要かについて、われわれはできるだけ早く決定すべきだ」

米軍に“支配できない”と言わせた 沖縄返還のたたかい 

 「沖縄の90万人民が声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波をこえて、ワシントン政府を動かすことができます」

 1950年の沖縄群島選挙に立候補した瀬長亀次郎人民党書記長(後に日本共産党副委員長)が訴えた通り、沖縄県民の祖国復帰のたたかいは、米軍の横暴な弾圧にもかかわらず、力強く前進していきました。

選挙で、本土との連帯で

 59年1月に祖国復帰促進県民大会を開催。同年7月には立法院が祖国復帰と核基地化反対の決議を採択。68年には琉球政府主席など「3大選挙」で革新統一勢力が勝利するまでになりました。

 本土でもそれに連帯した運動が拡大。63年4月には、往来を制限される沖縄と本土の人々が北緯27度線の洋上で交流する初の海上大会が開かれました。

 こうした動きに対して米側は当初、一時しのぎの対策で乗り切ろうとします。ケネディ大統領は62年に新沖縄政策を発表。沖縄への経済援助を増やすなどの対策を指示し、「米国の施政を続けることが軍事上絶対に必要」だと強調しました。

 ところが、米国のベトナム侵略戦争が激化し、在沖米軍基地がますます侵略の拠点となるに伴い、沖縄の本土復帰運動と日本全土の反戦運動が結びついてさらに進展します。

 65年2月に米軍が北爆(ベトナム北部爆撃)を開始すると、たたかいはさらに燃え上がり、それまでの沖縄政策では持ちこたえられなくなります。

米政府、危機感高まる

 ジョンソン国務次官は64年4月12日、沖縄問題に関しライシャワー駐日大使に書簡を送り、「日本や世界の世論に照らせば、100万人もの外人を米軍将官が支配する構図は今後、維持できない」と率直に表明します。

 6月4日には米軍と国務省の高官7人が沖縄政策を検討。ジョンソン氏は、「琉球人の温厚な気質もあり、米国は過去20年間、琉球でとてもうまくやってきた。しかし今後20年のうちに琉球は、アンゴラやモザンビークのような第一級の植民地問題になりうる」と警告しました。

 北爆開始で緊張がさらに高まると、ライシャワー大使は65年5月19日付の国務省あて電報で、「北爆は、60年の日米安保条約をめぐる危機以来で最も深刻な影響を日米関係に及ぼしている」と指摘。「日本政府は米国の政策に理解を表明している」が、「ほぼすべての日本人は、民族主義に目覚めたベトナム国民に対する絶望的な戦争の泥沼に米国がはまりこんだと考えている」と述べました。

抵抗はね返した運動

 ライシャワー大使からの覚書を受け取ったラスク国務長官は衝撃を受け、9月25日付でマクナマラ国防長官に書簡を送ります。

 「琉球諸島の新体制を含む新たな対日関係について一連の勧告をしたライシャワー大使の7月14日の覚書をご存知でしょう。・・・日本の情勢が変化しており、もし米国が正しく対処できなければ米国の利益を危険にさらし、正しく対処すれば好機をもたらすとのライシャワー大使の見解を、私は共有します」

 同長官はこう述べ、「(在沖)米軍基地の価値を傷つけることなく」施政権を日本に返還する方策などについて、国務省と国防総省で一連の秘密研究を進めるよう提案しました。

 しかし、沖縄を自分たちの獲得物だと考える米軍は、沖縄基地の自由使用を妨げる施政権返還に抵抗します。マコンネル統合参謀本部議長代理は12月23日付でマクナマラ国防長官に覚書を送り、施政権返還には反対だと表明しました。

 「琉球を日本の統治下に置けば、米戦略態勢は低下し、極東での米国の軍事的立場を深刻に傷つける。琉球に対する米国の排他的管轄権は予見しうる将来、米国と自由世界の安全保障の利益にとって不可欠だ。ベトナム作戦をめぐる最近の日本との政治問題を見れば、日本に施政権を返還したら、条約の特別な条項があったとしても、どんな困難に直面するかは明らかだ」

 「共産中国のますます攻撃的な態勢や核能力の強化、東南アジアの不安定な情勢などを考慮すれば、琉球を日本に返還する時間表をつくるのは、時期尚早かつ非現実的だろう」

 その後、さまざまな紆余曲折をへて、72年、沖縄の本土復帰は実現しました。71年に署名された沖縄返還協定は第1条で、「アメリカ合衆国は(沖縄切り離しを決めたサンフランシスコ)条約第3条の規定に基づくすべての権利及び利益を、この協定の効力発生の日から日本国のために放棄する」と定めました。乗り越えるのは不可能に見えた条約の壁。打ち破ったのは国民の運動でした。
                              (坂口 明)

【以上、引用終わり】

 今、普天間移設問題で再び基地問題が本土の国民にも意識されつつあるが、今一度、基地問題を他人事のように考えるのではなく、沖縄県民の苦痛を我が事として考えなければならないと感じる。

 佛桑華 そこには咲くな そこは基地 汝が紅は 沖縄のもの  (山原 健二郎) 

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この記事に対するコメント

沖縄にいきたいですね~


打つのが大変だったと思います。
戦跡しか行ったことがありませんので、ゆっくり瀬長さんの足跡をたどりたいですね。名護にも行きたいけど・・・
我が家の末っ子が休日を利用して行っているはずです。
うらやましいv-390
(急用ができ、家族に招集をかけると、名護、と言っていました)
仕方がありません。福岡から沖縄に思いを馳せて、この記事、コピーさせていただくかもしれません。家族の急用を先に片付けますv-410

【2010/01/10 15:11】URL | ひとみ #HsoC/3b6[ 編集]

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