スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


『日本』を論ずるなら、まずこの本を読んでから。

 今日2月11日は『建国記念日』とかいう日で、前のエントリー記事にも書いたが、右派団体が騒々しい日です。

 毎年なら紅星は、こんな日なぞ祝日と認めない立場から、敢えて出勤して仕事をしたり、高知である『反対する集会』に参加するところなのですが、今年は病休とっているのにそんなところに出かけていくというのも何だし、何か朝から気分がすぐれず、あまり人と接触しないほうがいいように思えるので、自宅で『2.11なぞ建国記念日と認めんぞ』というブログ記事をアップすることにしました。

 さて、紅星はコミュニスタを自認する者ですが、正直申し上げまして、マルクス経済学の歴史観とは今ひとつ相性がよろしくありません。

 『世界全部族・民族の経済の歴史が、ヨーロッパみたいな経済制度の発展法則に当てはまる訳がない!!』と、
M青同盟の時から、先輩同盟員やJCP専従の方々と意見がぶつかってきました。

 いつも喧嘩別れ同然で討論が終了し、何とか反論のネタがないかと探している時にめぐり合ったのが、今回から何回か紹介していくつもりの、

 故・網野善彦教授著  『歴史を考えるヒント』 (新潮選書 2001年)。

 


 この本は普段何気なく使っている『言葉』が辿ってきた歴史から、我々が今『日本』と呼んでいるこの地域がどのような成り立ちをしてきたのかを、いわゆる『網野史観』をベースに書かれたものなのですが、本屋で見つけて、パラパラと捲ってみた途端、脳天に稲妻が落ちたような感じがしまして、「そうそう、そうなんだよ!!」と、本屋で興奮して顰蹙を買った、今でも紅星のバイブル(聖書)的書物の一つとなっているものです。

 で、この本と『建国記念日』がどんな関係あるのか?ですが、まずはこの本に寄せられた、作家井上ひさしさんの推薦のことばを紹介します。


 ここから始めるしかない 井上ひさし(作家)

 鋭く逞しい史観で膨大な資料をたっぷり直視した末、網野さんはたとえば、「日本」という国号が歴史の上にはじめて出現したのは七世紀の末ではないかと言い切る。「天皇」 「皇后」という称号も同じ頃に現れた。

 さらに網野さんは慎重に考察を積み上げながらこう結論する。・・・・・こうして確立した小帝国日本は、当時まだ日本列島全体をその支配下においていなかった、と。つまり、そのころ、東北人も南九州人も、まだ日本人ではなかったのである。

 別に言えば、単一民族国家日本は一つの神話に過ぎず、したがってその神話をもとに建国記念日を決めたりするのは、ほとんど児戯にひとしい。

 このように歴史のなかの言葉を丁寧に吟味すると、一個の言葉で歴史の意味が、二個で世界の解釈が変わって、見る見るうちに日本という国の真実の姿が浮び上がってくる。日本国を考えるための新しい長い旅はこの一冊から始めるしかない。




 ・・・とまァ、この推薦文見ただけで右派団体の皆様方が憤慨するのが目に浮かぶ訳でありますが。

 この本は9つの章に分かれていまして、どれも面白いので追い追い紹介させてもらおうと考えていますが、今回はその『建国記念日』奉祝派にケンカ売っている第一章を紹介しちゃいます。長いですが、気を楽に読んでくださると、必死こいてタイピングした紅星の労も報われます(笑)。

 それでは、第1章 『「日本」という国名』から引用開始!


 国名が決まった時

 真っ先に取り上げなければならないのは、「日本」という言葉です。数年前から、日本人が歴史の教科書に日本についての悪口ばかりを書いているのはけしからん、ということをおっしゃる方が現れました。教科書に書かれていない歴史という話を書かれて評判になりましたが、その本に関係されている方がたまたま私が話をする会にお見えになりました。その時も私は「日本」について話をしたのですが、その方は「日本」ができたのは19世紀のことであり、昔の「日本」は部族の名前であった、といっておられたのです。これには私も大変驚きました。日本史の教科書の問題を取り上げている方でも、「日本」についてまったくご存じなかったのです。

「日本」は地名であるとお考えの方もあるいはいるかも知れませんが、これは本来地名ではありません。「日本」は特定の国の名前として、ある時点で歴史上にはじめて出現した言葉です。読み方も16世紀の頃に「にほん」と「にっぽん」の両方あることがわかっており、どちらが多く用いられたのかは議論の分かれるところですが、ここでは「にほん」にしておきます。「にほんばし」と「にっぽんばし」があるのですから、どちらを使ってもよいと思います。しかし、国の名前であるならば、誰かがいつか何らかの意味を込めて定めたことになります。それでは、この国の名前が決まったのは、果していつだったのでしょうか。

 さきほど挙げた方を含めて、驚くべきことに現代の日本人の多くはその答えを知らずに日本に暮らしています。大学で歴史を教えていた頃、毎年、最初の講義の時に学生に対して「日本という国の名前が決まったのは何世紀か」という質問をしてみました。そうするといつでも、またどこの大学でも、答えは紀元前1世紀から始まって19世紀まで、ほぼ満遍なく散らばっていました。やや多かったのは3世紀と答えた学生で、これは卑弥呼を意識してのことでしょう。それから15世紀も多く、これは足利義満が「日本国王」と称したのを念頭に置いているものと思われます。ただ、正解の7世紀を含めて、いずれも多数派と言えるほどの数ではなく、要するにこの問題に対して、日本人の認識はきわめてあやふやであると言えます。

 国家公務員の研修に呼ばれて同じ質問をした時も、結果は似たようなもので、50人のほとんどが知りませんでした。私が、「外国に行って、このことを聞かれたらどうするのですか」と言ったら、みなさん苦笑されていましたが、その席にいたアメリカの国務省の役人に「ご自分の国の名前が決まった年は」と聞いたところ、彼は1776年すなわち独立宣言の年を挙げていたと思います。それが本当にアメリカの国名が決まった年かどうかは別にしまして、私はこれは非常に重大な問題だと思っています。大学で中国人の留学生に聞くと、「1949年」と即座に答えが返ってきました。日本人のように、国名が誕生した時を明確に答えることのできない国民は、世界でも珍しいのではないでしょうか。

 「建国記念の日」が2月11日に決まった時、当時の歴史家たちはこぞって反対しました。神話の世界の話をあたかも事実であるかのごとく扱って、いわゆる「紀元節」を戦後に復活させたわけですから、それは当然だと思います。私自身も全く反対です。ただ、今から考えると、その時の閣僚や国会議員たちに、「日本という国の名前が決まった日を知っているのか」と質問を浴びせればよかったと思います。恐らく、誰一人知らなかったのではないでしょうか。「知らないくせに、よく日本の建国について議論ができますね」と、今でもそう言いたいくらいです。

 しかし、実をいえば、私自身もある時期までは国の名前が決まった年を、正確には認識していませんでしたし、学生にも全く教えてきませんでした。また、それが書いてある教科書も、最近まで全くなかったと思います。最近、ようやく本文や注にこれについての記述が現れましたが、やはり一番大きな問題は、どのレベルの歴史教育においても、この点がほとんど教えられてこなかったことだと思います。

倭人と日本人

 それでは、日本という国名が決まったのはいつなのかといいますと、現在の大方の学者の認めるところでは、浄御原令(きよみはらりょう)という法令が施行された689年とされています。浄御原令は天武天皇が編纂を開始して、死後その皇后の持統が施行した、はっきりと存在が確認されている法令です。その前に近江令があったという説もありますが、これは整備された形ではできていなかったという説が有力です。

 対外的には、大宝律令が制定された701年の翌年、中国大陸に到着した遣唐使の粟田真人が当時の周の皇帝・則天武后(中国大陸の国家の歴史上、唯一の女帝で、国号を唐から周にかえています)に対して、「日本」の使いであると述べたのが最初といわれており、これは、ほとんどすべての学者が認めています。それまでは「倭(わ)王」の使いであるといっていたのが、702年に変わったのです。つまり国名を「倭」から「日本」に変えたのですが、そのことから、「日本」という国号が公式に決まったのはそれ以前ということになり、689年の浄御原令施行の時が最も可能性が高いと考えられています。

 中国大陸の記録によれば、『史記正義』という本の中には、則天武后が日本国という名前を決めたという記述が出てきますが、これは則天武后の時に初めて、中国大陸の帝国の人が「日本」から来たと名乗る使者を確認したことを、このような形で表現したものと思われます(後掲、岩崎小弥太『日本の国号』)。その後に編纂された『旧唐書(くとうじょ)』『新唐書』などの史書によりますと、当時の遣唐使が「倭という字がよくないので、それを嫌って日本にした」あるいは「日本とは倭の別称である」「日本と倭とは別の国である」などと説明をしたと記録されています。唐は倭国から朝貢(ちょうこう)を受けていると思っていたでしょうから、その朝貢国が突然に「日本」に国名を変えたのは重大なことだったはずです。したがって、おそらく則天武后の命を受けて、役人が遣唐使に国名を変えた理由についてきびしく質問したに違いありません。それに対する返事が『旧唐書』『新唐書』に書かれているのだと推測できます。

 いずれにしてもはっきり言えることは、このとき以前、つまり倭から日本に国名を変えた時より前には、日本国という国は地球上に存在していなかったということです。存在していたのは倭国であり、それは倭人という集団を中心とした国でした。倭王という称号で中国大陸に使者を送るようになったのは、3世紀の卑弥呼の頃からだといって間違いないと思います。それ以後は、厩戸皇子、のちに「聖徳太子」といわれた人の時に送った遣隋使も倭国王の使いと言っており、決して日本国の使いとは名乗っていません。ですから、こう言うと驚かれますが、「聖徳太子」は日本人ではなかったのです。自分で倭人と言っていたのですし、倭人イコール日本人では決してないのですから。実際、関東人はおそらく倭人ではないでしょうし、東北人や南九州人は倭人ではないのです。

 「日本の旧石器時代」「弥生時代の日本人」といった表現を、今でも歴史学者は平気で使います。私も無意識にそういう言い方をしてしまうことがありますが、本当は これは日本人の歴史認識を曖昧なものにする、決して言ってはならない表現だと思います。旧石器時代に日本という国はなく、弥生時代に日本人はいなかったのです。このことは明確にしておかなければいけないと思い、最近は私はあえて日本列島という地名に置き換えて説明するようにしています。「日本」という言葉は、慎重に正確に使わなくてはならないと思います。

日出づるところ

 次に、日本という国名が成立した経緯を考える必要があるわけですが、まず認識しておくべきなのは、これは決して国民の総意で決まったのではないということです。当時のヤマトの支配層が、中国大陸の隋・唐の律令を受け入れて本格的な国家を造り上げることに全力を注ぎ、その上で唐、中国大陸の帝国を強く意識して定めた国名であることは間違いありません。従って、一部の人の決めた国名である以上、人の意志で変えられる、つまりわれわれ日本人の意志で変えることもできるのです。恐らく、現在は変わる可能性はほとんど無いと思いますが、我々の子孫の大多数がこんな国号は嫌だということになったら、「日本」は地球上から消えてしまうこともあり得るのです。私自身、敗戦後の一時期、日本軍の様々な残虐行為などを聞かされた時には、日本人であることが本当に恥ずかしいという思いにとらわれたのを、今でもはっきり覚えています。当然、慎重の上にも慎重に考えるべきことですが、もし多くの人々がこの国名は嫌だ、否定すべきだと思ったのならば変えてしまえばよいのです。どこからか自然に生まれた名前、地名などでなく、特定の時に特定の人が決めたものだから、我々の意志で変えることもできる国名だということを、我々ははっきりと確認しておく必要があると思います。そのことを前提にしないで、ナショナリズムなど主張できないはずですし、本当の意味での国際的視野も育っていかないのではないでしょうか。

 それでは、 「日本」という国号はどういう意味なのでしょうか。中国大陸の史書などにも多少、それに関する記述がありますが、「日出づるところ」という意味が背後にあることは確かだと思われます。当時の人もそう考えていたようですし、現代の学者の理解もほぼ、その点では共通しています。

 ただ、承平年間(931~938)に『日本書紀』の講義が行われた時の概略を記した「承平私記」「日本書紀私記」という記録に、面白い話が書かれています。この時の講師が、日本という国名について「日出づるところ」という説明をしました。そうしたところ、出席していたある参議から「今この国に在りて之を見れば、日は域内より出でず」という質問が出ています。つまり、日本国にあって見る限り、お日様は自分の領域の中からは出ないじゃないかというわけです。この重要な問いに対して、講師は何も答えていません。

 とすると、日の出るところは即ち、東の方角を指しているに過ぎないと理解するほかありません。つまり、日本とは地名ではなく、東の方角を意味する国名ということになります。

 そうなると、日の出る方角つまり東とは、どこから見ての話なのかが当然、問題になってきます。ハワイから見れば日本は日の沈む方角になるでしょうから。結局、これは中国大陸から見て東ということになるわけです。

 これは余談ですが、聖徳太子が出した「日出づる処の天子」という言葉で有名な国書に、なぜ隋の皇帝が怒ったのかについて、かつては「日の没する処」と言われたことに対して腹を立てたといわれていましたが、中国大陸にはそれほど強い太陽信仰はないようで、最近ではこれは誤りだといわれています。日本列島人には太陽の出る所をプラスと考える発想がありますが、中国大陸人は日が沈む所と言われても軽蔑されたとは考えないようです。隋の皇帝を怒らせた理由は「天子」という言葉をこの国書が使っていたからで、天子は世界に一人しかいないのに、東の野蛮人ごときが何を言うか、と隋帝は怒ったのだと、最近の学者は考えています。

 いずれにしても、これまで多くの学者が「日本」が中国大陸からの視点で決められた国名であることを、問題にしてきました。幕末に一人の神道家が、藤田東湖の父親で水戸学の創始者である藤田幽谷のもとを訪れた時、「この名前は中国大陸から決められた名前だから嫌いだ」と言っています。幽谷もかなりのナショナリストでしたが、「日の下」と書くのであれば「唐人」が決めた名前になるけれど、「日の本」なのだからこちらがつけた名前なのだと言って、その神道家を宥めています。ただ、よくよく考えるとその神道家の言う通り、この国号は中国大陸の帝国を強く意識した国名であり、自主性のない名前だという言い方もできるのです。

 この国名については、戦時中に井乃香樹という人が『日本国号論』(建設社、1943年)という非常にすぐれた研究をまとめて刊行しています(大隈和雄氏のご教示によって知りました)が、恐らくほとんど知られておらず、戦後、最も詳しく研究されたのは亡くなられた岩橋小弥太先生で、『日本の国号』という本を吉川弘文館から出版されています(絶版になって古本屋でもなかなか手に入りませんが、1997年に新装版が再刊されました)。国号に関するあらゆる学説が紹介されている本です。冒頭に、日本の国の呼び名が列挙されており、古代からの書物に登場する何十もの名前を紹介した上で、秋津島、大八州国(おおやしま)、倭、やまと、日本など十の国号について詳しく述べられています。

 ただ、岩橋先生も穏健なナショナリストの立場から日本という国号を研究された結果、最終的に「日出づるところ」という解釈はおかしいと言っておられます。つまり、先ほど申し上げたように、ハワイから見たならば日の沈むところになってしまいますから、そんな見る立場によって変わるような「分裂症的な」自主性のない国号を、当時の人がつけるはずがないとお考えになったわけです。

 そして先生は、「大和」の枕詞である「ひのもとの」から日本が発生した、という説を展開されています。確かにそれは一つの説ではありますが、「ひのもとの」が枕詞として使われた歌は、極めて少ないのです。大和の枕詞はその他に「そらみつ」などいくつもあり、 「ひのもとの」が使われるのはむしろ日本という国名が決まった後のようです。従って、その解釈は成り立たないというのが、現在では定説になっています。しかし、先生がそう解釈されたかったのも無理のない話で、実際に「日本」は中国大陸の唐帝国を強く意識した国号だと思います。これは多くの学者の認めているところですが、こう申し上げると、私も「自虐史観」と言われてしまうのかも知れません。それならそれで結構で、 「日本」に関して何も知らないで「愛国心」を強調するよりも、「日本」についてもっともっとよく知ることの方が重要ではないかと、私は強調したいと思います。

 しかし、それは逆に言えば、それまで「倭」という国名を使って、明らかに隋以前の中国大陸の帝国に朝貢していたヤマトの支配層が、小さいながら律令を定め、自らの帝国を作るのだという姿勢を明確に打ち出したのだということもできるのです。つまり、自らを朝貢国と位置づけていた状態から、脱却を図ったのだと思います。そう考えると、この国名には当時のヤマトの支配層の多少とも肩を張った、自立した小帝国形成への意欲が込められていることも間違いありません。そういった外交の面での意識の変化を読み取ることも可能であり、その点からも倭から日本への国名の変更はきわめて重要な意味を持っていると思います。ただ他面で、次回で述べるように、日本国は小帝国として東北・南九州を「侵略」し、新羅への侵攻を計画したことがあったのも、見落とすことはできません。

 そして、そのようにして決まったこの国名は、その後の日本列島の社会に決定的な影響を及ぼしました。つまり、その後1300年たった今でも、我々はこの国名「日本」を使い続けているのです。7世紀の支配層が自立への姿勢を打ち出すとともに、周辺に対して小古代帝国として侵略的姿勢を持ったことの影響が、今でも残っているのは間違いないことだと思います。そして、何よりも最も問題なのは、我々がほとんど全く意識しないまま、「日本」をあたかも天から授かった国名のように、今もぼんやりと使い続けているということではないでしょうか。



・・・・とまあ、10ページも引用したら打つ方も読む方も大変だ(笑)。

 でも、何かにつけて『愛国心』という右派団体もさることながら、ウチら左派を自認する者も、実は『日本』のこと何も分かっていないんじゃなかろうか、『目糞鼻糞を笑う』とは、右派・中道・左派そしてその他の『日本人』に等しく投げかけられる諺なんじゃなかろうか・・・・と、この本を読むたび思うのです。

 サヨクも、西洋の哲学や歴史を『独習』しているヒマあったら、『日本』がどのように形成され、ご先祖様である民衆がどのように社会を発展させてきたのかを徹底的に学びなおせ!と言いたい。ホント、日本の民衆史・自治の歴史を知らん(全く無知な人さえいる)JCPの専従が如何に多いことかと、まこともって嘆かわしい限りであります。

 マル・エンだけじゃ、『日本』共産党の名が泣くで!!

 機会見つけて、『日本』の多様性について書かれた2章も紹介したいと思います!

(・・・・でも、この章も長いんだよなァ・・・誰も読んでくれなかったらどないしょ)




 という事で、今回もこれまで。 したっけ
スポンサーサイト

この記事に対するコメント

『建国記念日』でなく


「祝日」法で定められたのは「建国記念日」です。

「記念日」というのは、何月何日、というふうに定められてるのですが「記念の日」というのは、「何が何月何日なんだ?」の突っ込まれを防ぐために、「逃げ道」を作ってるんですね。
 (「勤労感謝日」とか「敬老日」と同じく、「何があった日なんだ」という根拠が必要でない。)

※「2月11日」と法律で決まってないので、閣議で「来年は2月13日にしましょう」と決めれば、そこに決まる。

「倭」というのは、大陸方面からの蔑称でしょうね。(漢字は)
どっちにしたって、漢字そのものが大陸から入ってきたんだから、しゃあない。
「神武天皇」って、「そんな時代」に漢字の名前の天皇がいるはずないやろ・・・」という突っ込みも必要かな。

【2010/02/16 22:30】URL | ×第二迷信 #EEOsZA66[ 編集]

なるほど


 拙ブログへのトラバありがとうございます.
 日本という国名の歴史,なるほど,なるほど,と何度もうなずきながら拝読させて頂きました.面白い情報ありがとうございます.

【2010/02/19 13:00】URL | Ladybird #89BSpq7o[ 編集]

この記事に対するコメントの投稿



管理者にだけ表示を許可する

この記事に対するトラックバック

トラックバックURL
http://tosanishikigyorin.blog47.fc2.com/tb.php/336-7f7c9fbd
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。