昨日付けの毎日新聞が、1966年の少なくとも3ヶ月間、岩国基地沿岸で核兵器を保管していたとの、元駐日米大使特別補佐官の証言を報道した。
【山口県岩国基地 画像は山口県ホームページより借用】
【『毎日』2010年3月7日朝刊 1面より 引用はじめ】
元駐日米大使補佐官 「岩国で核保管」66年に3カ月以上
【ワシントン古本陽荘】ライシャワー元駐日米大使の特別補佐官だったジョージ・パッカード氏が、毎日新聞の取材に、米軍が1966年の少なくとも3カ月間、岩国基地(山口県)沿岸で核兵器を保管していたと証言した。同氏によると、核兵器を搭載した艦船を「ほぼ恒常的な形で」配備し、核攻撃に備え、「(一時的な)通過とは言えなかった」という。
パッカード氏は先に米外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」で、当時米軍が沖縄から本州へ核兵器を秘密裏に持ち込んだことを明らかにしていた。
同氏によると、核兵器は、海兵隊の戦車揚陸艦内で保管され、揚陸艦は岩国基地に隣接する係留施設に留め置かれていた。核兵器は有事の際、数時間以内に同基地飛行場の航空機に搭載され、攻撃に向かう可能性があったという。
国防総省の当時の首脳らもこの事実を把握。ワシントンで行われた会議の際、国務省の担当者がいる前で国防総省幹部が、岩国の核兵器に言及したことから偶然、発覚した。
60年の日米安保条約改定の際、米軍が核兵器を日本に持ち込む際には、日米両国の事前協議の対象にするとされた。さらに、核兵器を搭載した米軍航空機や艦船の寄港や通過については、事前協議の対象とはしない「密約」があったことが判明している。核兵器の常時に近い形での配備は、これらに明確に反するものだった。
パッカード氏は「岩国の核兵器は許容される『通過』には当たらないとライシャワー大使は即座に判断し、激怒した」と証言。辞任して暴露する可能性に言及して、米軍に撤去を求めたという。
さらに、米軍の意図については「日本では誰も気が付かないという判断の下、秘密裏に配備された」と分析し、「ライシャワー大使の姿勢は米軍に対し、日米の取り決めを順守するよう求める警告になった」と強調した。
◇ジョージ・パッカード氏
1932年生まれ。63~65年にライシャワー駐日米大使の特別補佐官を務める。ニューズウィーク誌記者、ジョンズ・ホプキンス大高等国際問題研究大学院長などを経て、98年から米日財団理事長。近著に「ライシャワーの昭和史」。
【引用おわり】
【同 7面より 引用はじめ】
パッカード氏発言(要旨)
ライシャワー元駐日米大使の特別補佐官だったジョージ・パッカード氏の発言要旨は次の通り。
◆岩国核配備
米海兵隊は核兵器を搭載した戦車揚陸艦をほぼ恒久的な形で岩国基地に隣接する施設に係留していた。それは『通過』とは言えなかった。
ライシャワー大使は日米間の取り決めで許容されるものではないと即座に判断した。岩国基地には飛行場があり、数時間で艦船から航空機に核兵器を移動させることができた。核兵器は特定の目的のためのものではなかった。
発覚は偶然だった。岩国の核兵器について国務省当局者が知らないことを認識していなかった国防総省幹部が言及して、その話がライシャワー大使に伝えられた。大使は激怒した。
◆『密約』問題
日米安保に反対する声が強かった時代に、核艦船の通過容認などの取り決めが明らかにされれば大問題になっただろう。当時の岸信介首相が退陣に追い込まれたかもしれない。
日本を守るうえでは核が必要で、核搭載艦船が通過することもあるというのが米国の姿勢で、日本政府は許可する判断をした。日本国民はこの話を十分、耳にしたと思う。密約を認めたところで、大騒ぎになることはないだろう。
◆日米関係
国防総省が全体の音頭を取るようにしてはいけない。国防総省は安全保障という一部を担当しているだけだ。
ライシャワー大使は米軍幹部に同席して日本外務省と交渉する際、自分が外務省のドアを開けることにこだわった。「対日政策は文民が権限を持っている」ということを示すためだった。
普天間飛行場の移設問題でオバマ政権は、鳩山政権にもっと検討する時間を与えるべきだった。旧政権時代の日米合意を押し付けるような外交は、よい外交とはいえない。 【ワシントン 古本陽荘】
【引用おわり】
【同 28面より 引用はじめ】
岩国に核配備 「非核三原則侵した」
広島 日米政府に批判の声
米軍岩国基地(山口県岩国市)沖に1960年代、核兵器を搭載した揚陸艦が「常備配備」されていた実態を、ライシャワー元駐日米大使の特別補佐官だったジョージ・パッカード氏が証言した。岩国基地周辺や隣接する被爆地・広島からは、改めて真相を明らかにするよう求める声が相次いだ。
【大山典男、井上梢】
岩国基地への核持込み疑惑を70年代から追及している山口県平和委員会筆頭代表理事の久米慶典県議(共産)は、「核疑惑で事前協議の対象外とされた寄港、通過どころではなく、常時配備の形で核が岩国基地沖にあったことが改めて明らかにされた。核搭載船は基地沖数百メートルに係留され、火災を起こしたとの米側記録もある。住民に知らされず、許しがたい状態が続いていた」と指摘。さらに「岩国基地には核兵器を組み立てる部隊が70~80年代に駐留し、その作業所は98年になって解体されたという米側資料もある。核密約の解明過程で、こうした問題も明らかにされるべきだ」と述べた。
広島県被団協の金子一士理事長(84)は「米国はあまりにも強引。日本の外交の弱さも象徴している」と両国政府を批判。近く報告書をまとめる外務省の核密約についての有識者委に「すべてを明らかにして非核三原則を侵したと政府も認めるべきだ」と注文を付けた。
被爆者で、米軍岩国基地強化に反対している前広島県廿日市市市長の山下三郎さん(80)は「非核三原則があるにもかかわらず、核が一時的にでも配備されていたというのは信じられない」と憤った。また「被爆者として、核兵器が世界からなくなることが願いで、そのためにも政府は非核三原則を十分心して守ってほしい」と話した。
【引用おわり】
ちなみに、参考までに1965年および1966年の出来事をwikiから引用してみる。
1965年(昭和40年)
◆2月1日 - 原水協から社会党・総評系が分裂し、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)を結成。
◆2月7日 - 米、北ベトナム爆撃(北爆)開始。(~68年3月31日)
◆3月8日 - 米海兵隊、ダナン上陸。
◆4月24日 - アメリカの北爆に反対し小田実らが「ベトナムに平和を!市民・文化団体連合」(ベ平連)を結成。
◆11月10日 - 中国で文化大革命が始まる。
1966年(昭和41年)
◆1月17日 - 水素爆弾を搭載したアメリカのB-52爆撃機がスペインのパロマレス沖でKC-135空中給油機と衝突、水爆を搭載したまま墜落(パロマレス米軍機墜落事故)。
こう見てくると、米軍が『有事』に備え、岩国基地に核兵器を3ヶ月も保管していた理由が、おぼろげながら浮かび上がってくる。(まさか「中国で文革が始まったから」ではないだろう。また、この時期朝鮮情勢も「有事」といえる事象は認められない)
米軍は61年からベトナムに介入を開始し、介入と同時に枯葉作戦を始めている(道AALA副理事長 鈴木 頌 『枯葉作戦とはなんだったのか』)。
そして上記のように65年から68年までベトナム北爆。
ジョージ・パッカード氏は「…核兵器は特定の目的のためのものではなかった。…」と発言しているが、状況から見るに、ハノイ、ハイフォン、ナムディン、南北ベトナム境界線近くのドンホイあたりを標的に核使用が検討されていたのではと紅星は推察する。
紅星の推察には裏付けもある。『Asia Times Online』2008年4月17日は、「新たに機密解除された米空軍機密文書によると、米空軍は共産ゲリラ殲滅を目的として、ベトナムに対し1959年と1968年、ラオスに対し1961年、核兵器の使用を(政府に)要望した…」とするRichard Ehrlich氏のレポートを掲載している。
ちなみにRichard S Ehrlich氏のレポート全文は以下のとおり。英文なので辞書必携でお読みいただきたい。
【引用開始】
The US's secret plan to nuke Vietnam, Laos
By Richard Ehrlich Apr 17, 2008
BANGKOK - The US Air Force wanted to use nuclear weapons against Vietnam in 1959 and 1968, and Laos in 1961, to obliterate communist guerrillas, according to newly declassified secret US Air Force documents.
In 1959, US Air Force chief of staff General Thomas D White chose several targets in northern Vietnam, but other military officials blocked his demand to nuke the Southeast Asian nation.
"White wanted to cripple the insurgents and their supply lines by attacking selected targets in North Vietnam, either with conventional or nuclear weapons," one declassified air force document said.
"Although White's paper called for giving the North Vietnamese a pre-attack warning, the other chiefs tabled it, possibly due to the inclusion of nuclear weapons. Seven months later, the proposal was withdrawn," it said. The 400-page document, titled, "The United States Air Force in Southeast Asia: The War in Northern Laos 1954-1973," was written in 1993 by the Center for Air Force History in Washington and "classified by multiple sources".
It was made public - along with several other previously secret, war-era air force documents - on April 9 by the National Security Archive in Washington, after extensive Freedom of Information Act litigation. The Archive is an independent, non-governmental research institute in George Washington University.
White "asked the joint chiefs of staff for the green light to send a squadron of Strategic Air Command (SAC) B-47 jet bombers to Clark Air Base in the Philippines" to prepare for an assault on nearby Vietnam, the declassified report said. White's quest to unleash America's nuclear arsenal may have been inspired by an air force study titled, "Atomic Weapons in Limited Wars in Southeast Asia," it said.
That study "focused on the use of atomic weapons for 'situation control' in jungles, valley supply routes, karst areas, and mountain defiles to block enemy movement and to clear away cover", the declassified report said in a footnote elaborating on White's strategy. Such terrain forms much of northern Vietnam and Laos.
One year later, during December 1960 and January 1961, a Soviet airlift was supplying "food, fuel and military hardware" to local pro-Moscow forces in Laos, via Hanoi, the declassified air force document said. In March 1961, the US joint chiefs "countered with a plan calling for up to 60,000 men, complete with air cover and nuclear weapons".
"This inclusion of nuclear weapons by the military was a legacy of the Korean War. To the chiefs, it was unthinkable for the United States to embark on another conventional, strength-sapping war," the document said.
In 1968, just before their Tet Offensive, communist North Vietnamese troops and their southern Viet Cong allies attacked American forces in the center of the country, where the US kept Vietnam divided. In response, General William Westmoreland, commander of American forces in Vietnam, reached for the nuclear button.
"In late January, General Westmoreland had warned that if the situation near the DMZ [demilitarized zone] and at Khe Sanh worsened drastically, nuclear or chemical weapons might have to be used," said a separate 106-page declassified, "top secret" report titled, "The Air Force in Southeast Asia: Toward a Bombing Halt, 1968," written by the Office of Air Force History in 1970.
"This prompted [Air Force chief of staff] General [John P] McConnell to press, although unsuccessfully, for JCS [joint chiefs of staff] authority to request Pacific Command to prepare a plan for using low-yield nuclear weapons to prevent a catastrophic loss of the [US] Marine base," it said.
Throughout much of America's failed war, the US relied on massive aerial bombardments, plus napalm, in Vietnam, Laos and Cambodia but did not drop any nuclear bombs, despite the US Air Force's three attempts. After the US lost, communists achieved power in 1975 in all three countries.
With hindsight, the authors of the 1993 declassified air force document said it would not have been a good idea "to employ nuclear weapons to destroy insurgents and their supply sources" in Vietnam or Laos.
"It is doubtful whether any suitable targets for such weapons existed in the jungles of northern Laos or North Vietnam," it said. "More important, such an attack would have given the communists a tremendous propaganda victory and possibly spread the war to China and the western Pacific," it said.
Communist China supported the guerrillas in Vietnam, Laos and Cambodia against US assaults. The document's mention of the US spreading its would-be nuclear war to "the western Pacific" apparently refers to involving the Philippines, Taiwan, Japan, South Korea and nearby islands, where the US had military facilities.
Richard S Ehrlich is a Bangkok-based journalist from San Francisco, California. He has reported news from Asia since 1978 and is co-author of the non-fiction book of investigative journalism, Hello My Big Big Honey! Love Letters to Bangkok Bar Girls and Their Revealing Interviews. His website is www.geocities.com/asia_correspondent.
(Copyright 2008 Richard S Ehrlich.)
【引用おわり】
また、『毎日』も2006年8月2日付で、以下のような記事を載せている。
【引用はじめ】
ニクソン政権:ベトナム戦争核兵器使用、就任当初から検討
【ワシントン及川正也】ベトナム戦争の早期終結を目指していたニクソン米政権が69年秋、核兵器使用を選択肢の一つとして検討していたことを示す米政府文書が7月31日、明らかになった。米ジョージ・ワシントン大学「ナショナル・セキュリティー・アーカイブ」が発表した。ニクソン大統領が72年に核爆弾使用を主張したことはすでに明らかになっているが、今回の文書はニクソン大統領就任1年目にすでに戦術核使用をめぐる議論が政権内部であったことを示している。
文書は69年10月2日付のキッシンジャー大統領補佐官(国家安全保障問題担当)からニクソン大統領あてのメモや添付書類。当時、ベトナム終戦が最優先課題だったニクソン政権は同年夏、同補佐官らを中心に軍事計画の立案に着手した。
計画の骨格を示した同日付のメモで、北ベトナムへの「短期間の強力な空や海からの攻撃」や「ハノイ指導部への強力な心理的打撃」を提起したほか、メモの付属書類で「我々は核兵器使用を準備する必要があるかどうか」と記されている。
政権初期に核兵器使用が検討されたことは米メディアが報道したことはあるが、公式文書での確認は初めて。大統領と補佐官のどちらが最初に提起したかは不明だが、報道などでは、立案グループの一員だった同補佐官側近が空中核爆破を提案したとされる。
ニクソン大統領は72年4月、同補佐官に「核爆弾を使用したい」と核攻撃を提案し、強く反対されたことが02年2月に米国立公文書館が公開したホワイトハウスの録音テープから判明した。ニクソン政権は最終的に核爆弾の使用を見送った。
【引用おわり】
歴史に『if』は禁物というが、当時の米国政府は、今以上に核の使用を選択肢として考えていた感がある。
もし今回の岩国の核兵器が北ベトナムに使用されていたら…と考えると、とてつもない強い戦慄を覚える。
しかし、忘れてはいけないのは、今も岩国基地をはじめとする全国の米軍基地および米第7艦隊の『テロとの戦い』を名目にした臨戦態勢は解かれていないのである。
今回の証言を過去の事と片付けず、『いま』に引き付けて熟考すべきではあるまいか、そう紅星は訴えて今回の記事を終える事とする。
長文深謝、したっけ☆
この記事に対するコメント
「少なくとも」
岩国に3ヶ月・・・だから、
横田に何年の何ヶ月、嘉手納に、横須賀に… がゾロゾロ
ゴキブリを1匹見たら、20匹はいる。 という。