幸徳秋水から見た中江兆民:『兆民先生行状記』その1

 かなり前になってしまいましたが、拙ブログによくコメントを書き込んで頂いている『ladybird』さんが運営するサイトで、 『中江兆民に光を』という記事がありました。

 その後、ストレス性の精神疾患を患ってしまった紅星は、知人の医師の紹介で高知市のT病院に12月から月に1度のペースで診療と薬を処方して頂いているのですが、そのT病院は江ノ口川の側で、もう少し東に行くと中江兆民誕生地があるのを知り、3月の診察のときに訪れて写真を撮らせて貰って来ました(実は2月にも行こうとしたんですが、悪名高い『新堀川工事』のため近づけなかったんです)。

         中江兆民先生誕生地の碑


 さて、拙ブログは以前から幸徳秋水氏の論説を幾度と取り上げて来ましたが、幸徳秋水氏と中江兆民氏は、ご存知のように弟子と師匠の間柄だった訳でして、秋水氏も『兆民先生行状記』『兆民先生』で、中江兆民氏の事を書いています。

 そこで、新カテゴリ『中江兆民』を立て、『兆民先生行状記』そして『兆民先生』を拙ブログでも訳して紹介したいと思います。

 読んでいて思ったんですが、中江兆民さんって、かなりの変わり者だったんですねぇ…そんな奇行の数々も出てきます。


兆民先生行状記

  次兆民先生病中見示韻
        (明治三十四年)  秋水

卅年罵倒此塵區  生死岸頭仍大呼
意氣文章留萬古  自古誰道兆民無

 廿六年三月、少しは世間に揉るるも佳なるべしとて出しやりし大和田と更替に、予は一日より再び先生の玄関に起臥することとなれり、今の寓居は予が先生に従いしより、大阪、曾根崎、隼町、保町、柳町と移り来し中にて、もっとも広き構えなり、南面の庭には相応なる假山泉水の設あり、梅櫻桃李他種々の樹立目を喜ばしめ、奥には椽側伝いに同じ庭に向かえる茶室ありて、ここは幼児の遊場となり居れり、兎に角中等人士に恰当なる住居なれど、予にとりては来客の通路なる三疊の玄関の外、書生房の設なきため、聊(いささ)か物足らぬ心地せらる、鴨居の朽ち戸袋の壊れたるなどは、某奉行のかつて住まわれしことありという時代物の難有味をそえて、火災多き江戸には珍らし。

 先生近時全く政海文壇より隠遁して、専ら心を財利の業に預けらる、先生語らるるには、今の政海に立って銕面(てつめん)なる藩閥政府を敵手にし、如何に筆舌を爛らして論議すればとて、中々捗の行くことに非ず、さらでも貧乏なる政党員が運動の不生産消費は、窮極する所、餓死するか自殺するか、さもなくば節を枉(ま)げ説を賣(う)りて権家豪紳に頥使(いし)せらるるより外なきに至る、衆多の人間は節義の為に餓死する程強硬なるものに非ず、ヽヽヽヽ(伏字)等の堕落して臭名を流せるも、畢竟是が為めのみ、彼豈(あに)節義の何物たるを知らざらんや、其心寧ろ哀む可き者あり、金なくして何事も出来難し、予は久しく蛙鳴蝉噪(ameisennsou)の為す無きに倦む、政海のこと、我是れより絶へて関せざる可し、文字の如きも亦然り、日々奔走に衣食して雄篇大作の出来る可き筈なし、泰西(西洋)の文人は天下を読者とす、故に僅かに一両冊の傑作を出せば忽ち数萬部の需要あり、以って畢生(終生)糊口(生活)の資を得て悠々任意の文を作る、されば大抵相当に富まざるなし、※支那にても、文人詩家、杜甫を除くの外は、窮を愬(うった)うる彼の如きの韓愈すら蓄妾する程の余裕はありき、彼等金銭の為めに驅られ、飢渇を支えんが為めに文を作らず、故に後代に伝うるの名文を出すことを得たりしなり、今や我小島國の限りある読者を敵手とし、新聞雑誌に文を売り、其日暮を立つる者、能く何事をか為し得んや、文字や贅沢品なり、衣食足って後談図可きのことなり、黄白(金銭)なる哉、我は黄白を取らんと。

【紅星訳】
 明治26年(1800年)3月、「少しは世間に揉まれてみるのも良かろう」と出された大和田と入れ替えに、私(秋水)は1日から再び兆民先生の玄関に寝起きする事となった。

 今の住まいは私が先生に(書生として)従っていた時分、大阪、曾根崎、隼町、保町、柳町と移ってきた中で、もっとも広い構えをしている。

 南に面した庭には建物に相応しい箱庭が設けられ、梅・桜・桃・スモモ他色々な花樹が目を楽しませてくれ、奥には縁側伝いに同じ庭に向かうことの出来る茶室があって、ここは幼児の遊び場となってしまっている。

 とにかく中流の人物に格好な住居ではあるが、私にとっては来客の通路である三畳の玄関のほか、書生房の部屋がないため、いささか物足りない心地がしている。

 鴨居が朽ち戸袋が壊れているところなどは、某奉行がかつて住んでおられたことがあるという時代物のありがたみをそえて、火災が多い江戸には珍しい事である。

 先生はこの頃全く政界や文壇から隠遁してしまって、もっぱら商売の方を熱心にしている。

 先生が語られるには、

「今の政界に立って鉄面皮の藩閥政府を相手に、いかに筆舌を嗄らして論議しても、なかなか事が前に進むことはない。ただでさえ貧乏な政党員が運動ばかりして生産せず消費ばかり続けるのは、最後のところ、餓死するか自殺するか、さもなくば節を曲げ、説を売って、権力者や大資本家にあごでこき使われるよりほかないところまでになってしまう。多くの人間は節義の為に餓死する程強くはない。ヽヽヽヽ(伏字)等の堕落して臭名を世間にさらしているのも、つまるところこれだ。彼が何で節操や道義がどういうものかを知らなかろうか。その心情むしろ哀れむところさえある。
 金がないのでは何事も出来にくい、儂は長い間、騒がしいだけの無駄な論議が何も為さない事に飽き飽きしてきた。政界のことについては、儂はこれより関係を絶つ事にする。
 文学・評論もそうだ、日々生活の為に駆けずり回っていて、雄大な著作や大作が出来るはずがない。西洋の文学者は世界を読者としている。だからわずかに一、二冊の傑作を出せばたちまち数万部の需要がある。その収入をもって一生分の生活の資金を得て、また悠々と思いのままの作品を作る。ならば大抵相当に裕福にならないはずが無い。中国でも、杜甫を除く作家や詩家は、困窮をうったえた彼の韓愈すら愛人を養うほどの余裕はあった。彼らは金銭のために著作に駆り立てられることも、生活を支えるために作品を作ることはしなかった。だから後世にまで伝わるほどの名文を出すことが出来たのだ。
 今やこの小さい島国の限りある読者を相手に、新聞雑誌に文を売り、その日暮らしを立てるようでは、何事か為す事など出来ようか。文学は贅沢品である。生活が成り立ってから考えるべきことである。まずは金銀だ、儂は金銀を得ることに労力を使いたいのだ。」
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この記事に対するコメント

変わり者かなー


変わり者というよりも中江兆民はどうでもいいことにツッケドンではなかったのでは、アル中と自らいったのは病識を持っていたのでは。

お話のT病院は中江兆民の流れを引き継ぐ、槙村浩のカルテを持っています。
槙村のお母さんは槙村生家近くの二十代町近くにあった野波さんの高知病院へ勤めていましたが、槙村のことでつい看護婦免許を失効してしまい、補助的な仕事で槙村を守りました。

新堀川工事は日曜市と元の県立中央病院を結ぶ桜井橋でとまっています。役所言葉で言ういわゆる中止ではない中断です。
それが工事主体の県は中断していただいているのですが、岡崎高知市政がなぜか跳ね上がって、県に工事再開を迫ったりしています。

龍馬伝の今日、道路の下の新堀川より、ひなびた新堀川の姿を観光客に見ていただいたほうがどんなにいいことでしょう。

【2010/11/22 01:02】URL | 下司孝之 #vicmBoqw[ 編集]

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中江兆民に光を

 坂本龍馬,板垣退助,岩崎弥太郎,...  高知県の生んだ偉人というと,やはり明治維新~自由民権に関係した人たちの名が多くあがります.その中で,名前が知られている割に,脚光を浴びることの少ない人物もいます.  たとえば中江兆民.  高知市の繁華街,NTT高 ブログ「浦戸湾」【2010/03/31 04:58】