一條神社の『説明碑』の間違い、藤祭りまでには直るの?

 2月末で無職になってから、部屋に引き篭もってばかりではますます『適応障害』が悪化するし、運動不足にもなると思い、天気のいい日はなるべく外に出てジョギングしたり、そこいら辺を歩いたりするように心がけています。

 そんななか、『中村に住むようになって8年近くにもなるのに、ここの名所・旧跡について知らんよなぁ…。よし、セカンドブログの更新も止まって何とかしなきゃいけんし、セカンドブログで中村の名所・旧跡案内をしよう!』と最近思うようになりまして、今は土佐一条家、長宗我部家、土佐中村藩に関係するスポットを訪ね歩いています。

 そして、今日ちょうど『四万十川リバーサイドウォーク』(あゆコース17km)で、一條神社の前を通りかかったので、「あの件は解決したかな?」と、一條神社の『説明碑』に足を運んでみました。

 一條神社鳥居 中村御所跡碑

【左:一條神社鳥居、右:中村御所跡碑】


 


 実は一ヶ月ほど前、四万十市の教育委員会に、「一條神社」とその境内にある「咲かずの藤」の説明碑(結構立派な石に、その観光スポットの説明を刻んだ金属製のプレートをはめたもの)に間違いがあるという旨を電話で話し、応対した教育委員会の人も、「実地に行って調べて、間違いと分かったら直します」と確約してくれていたのです。

 ・・・が、今日行ったら全くそのまんま、手を打った形跡もなく、正直ガッカリです。

 どこが間違いなのか?は、ちょっと日本史の知識がある人なら、すぐ分かります。

 ここに、問題の説明碑の写真と、その説明文を載せてみますね。

 一條神社説明碑

 【一條神社】
 この神社は、文久2(1868)年、中村御所跡の小森山山頂にあった一条家御廟所跡に、土佐一条氏の遺徳を偲ぶ有志によって建立されました。土佐一条氏は応仁の乱を避け荘園の復興を目指して下向した関白一条教房に始まり、その子房家以後4代、中村の文化、経済の発展に力をそそぎました。この神社には教房の父、兼良を始め、土佐一条氏歴代の霊を祀っています。毎年11月に行われる大祭は、土佐の3大祭の一つに数えられています。現在の社殿は、昭和19(1944)年の建立です。

 咲かずの藤説明碑

 【咲かずの藤】
 土佐一条氏は邸内に藤見の館「藤遊亭」を建て、家紋でもある藤をこよなく愛したと伝えられています。土佐一条氏第4代当主一条兼定は、長宗我部氏に追われ、館を離れるにあたり
 植え置きし 庭の藤が枝 心あらば 来ん春ばかり 咲くな匂うな
と歌を残して去り、この藤はその後約三百年間花をつけませんでした。
 しかし文久元(1867)年、この藤が見事に咲きほころび、このことが翌年の一條神社建立の発端となりました。

 さて、何処に間違いが有ると言うのか。もうご存知の方も多く居られるでしょうが、「年号」と「西暦」が一致しないんです。

 「咲かずの藤」が咲いたと説明碑にある「文久元年」、そして一條神社が建立されたと説明碑にある「文久2年」は、西暦で言うとそれぞれ「1861年」、「1862年」になります。

 因みに1861年の出来事としては、日本では「ヒュースケン暗殺」「東禅寺事件」、外国では「南北戦争勃発」(アメリカ)「イタリア独立戦争開始」(イタリア)があり、翌1862年の出来事としては、日本では有名な「坂下門外の変」「寺田屋事件」「生麦事件」「和宮降嫁」、外国ではリンカーンの「奴隷解放宣言」があった年です。

 一方、それぞれの出来事があったのが西暦年だったとすると、その時の元号はそれぞれ「1867年」=「慶応2、3年」(太陽暦と太陰暦のずれ)、「1868年」=「慶応3、4年(8月まで)」および「明治元年」となります。

 先程のようにこの両年起こった出来事というと、非常に多いので整理して書きます。

 1867年・・・日本:「一橋慶喜将軍に就任」「孝明天皇死去」「大政奉還」「坂本龍馬暗殺」
       国外:「アメリカ、ロシアよりアラスカ購入」「パリ万博」「ルクセンブルク独立」
          「オーストリア・ハンガリー帝国成立」「自治領カナダ成立」
          「K.マルクス『資本論』第1部刊行」「仏領インドシナ成立」

 1868年・・・日本:「王政復古の大号令」「鳥羽・伏見の戦い」「五箇条の御誓文」「江戸城無血開城」
          「奥羽越列藩同盟結成と東北各地での戦争」「上野戦争」「明治天皇即位」
          「榎本武揚ら蝦夷地共和国を宣言・箱館戦争」
       国外は、これと言って特筆すべき出来事見つからず。

 こう見ると、「咲かずの藤」が咲いた逸話と一條神社建立は、本当に藤の花が咲いたかも知れませんが、1867-68年の「大政奉還」「王政復古の大号令」「明治天皇即位」という情勢に関連して、天皇家と縁の深い五摂家の流れである土佐一条氏を顕彰しようと行われたのが事実なんじゃないかなぁ…なぞと紅星は推理したりするのですが。

 ともかく、5月3日の憲法記念日に行われる藤祭りには、市民だけでなく、県の内外からも大勢の観光客が一條神社を訪れます。その時にこの2つの説明碑を見られて、日本史マニアに笑われないように、市の教育委員会はこの日までには何とか問題を解決して欲しいものです。

 もし藤祭り過ぎてもそのままなら、紅星、「高知新聞」の読者欄に投稿しちゃうかも知れんよ(笑)でもそうなったら、中村の恥を曝すことになるんであまりしたくないから…本当に早くお願いしたいところです。

 しかし、長岡京市の勝龍寺城の展示説明の間違い見た時も思ったけど、教育委員会って、存外自分の街の歴史について知識不足だったり、無頓着だったりするものなんですね・・・・。

 郷土史教育、大丈夫か ΣΣ(゚д゚lll)!?

 ※ 後日談(4/7追記):どうも教育委員会内でも色々部署があるみたいで、5日に再度教育委員会にかけたら、「公民館の生涯学習課の方にかけ直して下さい」と言われました。そこで言われた通り生涯学習課にかけたら、先日と違い即座に年号と西暦の食い違いを理解してくれて、担当業者に話をしてみるとの事でした。

 あとはそれが『藤祭り』に間に合うか!?

※4/9追記:今、一條神社で過去に取り溜めた画像整理していたら、こんなの出てきました!!一條神社境内および社殿横の案内板です。

 一條神社境内案内板その1 一條神社境内案内板その2

 こっちの方が古くからあって、しかも社殿横にあるので、
一條神社の創立年は文久二(1862)年
が正しいようですね。そして
咲かずの藤が咲いたのは文久元(1861)年

 これで問題は見事解決!あとは西暦を訂正するだけでOKという事です。

 となると、紅星の『仮説』は全くのでたらめ・・・明治維新は全くの無関係って事です。

 やはり記事というものは、根拠のない思い込みを廃して、確たる証拠物件や文献に基づいて行わなきゃイカンなと反省しておるのと、同時にいい教訓を学ばせて頂きました。




 てなところで、今宵はこれまで。

 したっけ

 
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