先日、
『水の如きブログでありたい』
というエントリーで、「言葉って大事ですね」という旨の記事を書かせてもらいましたが、22日朝に しんぶん赤旗の
O'kane寄港反対集会
の記事を、『おおっ!3面にけっこう大きく載ってる!!さすが赤旗☆』と満足しながら読んでから、何の気なしにパラパラとめくっていると、9面の学問・文化欄、
俳優の上杉祥三さん
のエッセイ 『生かして頂いてありがとう』
が目に留まりました。
連載二回のこの日の題名は
『言霊の国』。
その題名が気になったので読み進めてみると、『水の如き・・・』でいい足りなかったことを見事に代弁してくれていて、
『そうそう、その通り!』
と何度も頷いてしまういいエッセイで、『これは皆さんに是非紹介せねば!』と思いまして、今回、ここに引用させていただくことにしました。
生かして頂いてありがとう 第二回『言霊の国』
上杉 祥三
日本には古来より、言葉には霊がのるとされる「言霊信仰」がある。つまり日本語は、それを口に出すことによって、言葉が全て大宇宙に、神の耳に届くことを意味する。そんなの迷信だと思っていたが、長年、自分を含めいろんな人を観察していると、本当にそういうことがあるのかもしれないと考えるようになった。
言いたいことを言う口の悪い人は、いくら才能や勢いがあっても、最終的には不幸な人生を送ったのを、また、朴訥でいつもそういう人にいじられてもニコニコ笑っていた人が、後に大成し幸せを掴んだのを何度も見た。まるでお笑いのボケと突っ込みで、圧倒的にボケの芸人が人気をさらうように。何かと鋭い突っ込みを入れたがる人は、後の人生で痛い目を見るというのが、今の私の教訓だ。
私も若いころは、気の利いた毒舌や皮肉を言う人が賢いように思え、相手の話に「そうですね」と肯定するのが嫌で、やたら否定的で辛口な意見を言ってきた気がする。「いや」「でも」「だって」「そんなことないですよ」とそういう切り口で喋り、辛辣な反論を言うことが、ある時、癖になっていたように思う。それを本人はしっかり自己主張できるようになったと喜んでいた。
しかし、いつの間にか否定的な言葉の種が、真っ黒な実になり自分に降りかかり、人が私を避けて妙に孤独になったように感じた。
そのとき否定や批判の言葉は、それだけで独り歩きし、やがては自分自身の運気も否定するんだと気がついた。それは独り言でも同じである。口汚い罵詈雑言は、まさに天に唾するようなものなのである。
以前、スポーツ選手のヒーローインタビューで、決まったように冒頭「そうですね」と言うのが、いかにも間が抜けてると思っていた。でも実はそれが正しい態度なんじゃないだろうか。まずは相手を肯定する言葉というのは、和を重んじる日本人の素晴らしい文化とも言える。この言霊の国の神様はそういう人に幸運をもたらすのだろう。
(俳優、木曜日連載)
ちょうど前日、チンピラウヨク(土佐高知さん曰く『親米ポチ党』)の、ドブのヘドロ(イカン、『黒言葉』使ってしもた)の如き、彼らの人間性を疑いたくなるような罵詈雑言を聞いたあとだったので、共感もひとしおでした。
振り返って、自分もあまり人に偉そうなこと言えるほど言葉を大事にしていないのかも・・・と、いささかながら反省したことでした。
一朝一夕には治らないでしょうし、このような『政治系』の記事を書いていると『相手を肯定する言葉』を使い続けるというのは、なかなか至難の業だなァとも感じますが、そういう言葉を使おうという意識だけは持ち続けたいですね。
皆さんは『いい日本語』、使っていますか?
※上杉さんのエッセイ『生かして頂いてありがとう』は、5/15付『しんぶん赤旗』から、毎週木曜日連載。JCP党員や赤旗読者の方でまだ読んでいない人は、新聞置き場から引っ張り出してぜひお読み下さい。赤旗読者でない方は、この機会にぜひ赤旗を☆
今日も拙いブログにお付き合い下さり、ありがとうございました☆
この記事に対するコメント
考えさせられますね~
「口は災いの元」を地でいくような生活ですので、家族から注意されっぱなしです。考えさせられますね~。「赤旗読者でない方は、この機会にぜひ赤旗を」を読んで思わず一人でうなづいてしまいました。
いいお話ですね
初めまして。
この記事をTB下さってありがとうございます。!
赤旗読んでないお玉ですが、
この話とてもいいのでうちでも紹介させて下さい。
日頃、わたしもつくづく感じてます。
そう思いつつも、吠え掛かられたら、性懲りもなく、吼え返してしまうんです(笑)。
人様にやくざ根性を見てしまうのは、自分の精神健康にはよくないです。
それで結局は、自分の言葉を汚してしまうんですから…。
上杉さんのおっしゃっていること、納得です。
紅星さん、素敵な記事、ありがとうございました。(お玉さんも。)